フランクフルター・アールゲマイネ(FAZ.net)記事抄訳(21)
福島原発事故に関連する記事の表題と抄訳を安藤直彦会員が随時行う。(掲載伊津)
第三稿(6月14日)のUlrich Bedkの論稿は脱原発についてのドイツ人の考え方をうまく整理しているので、やや長文だが、できるだけ訳出してみた。彼は1992年以来ミュンヘン大学の社会学の教授で、専門テーマはグローバリゼーション、労働世界とリスク社会の変遷。 安藤直彦
2011年6月12日
(緑の党)
脱原発は誰のものか?
数十年来、緑の党は脱原発のために戦ってきた。そして、かりに2017年がその目標であったなら、原子力法に賛成するだろうと多くの人が話している。(Markus Wehner)
緑の党はかっての原発賛成派にたいして不信をいだいている。
緑の党の古参党員は黒=黄(与党)の脱原発に賛成することに警告している。「私は速やかな原発からの脱出を望んでいる。フクシマ後は、政府がやろうとしている2022年よりもすみやかに原発をとめる良い理由がある」。とHoehn女史。
2011年6月14日
(黒=黄(与党)の愛憎さだまらぬ演技)
Kuenastは我慢強い
緑の党はすべての連立のオプションに門戸を開いている。誰もこの時期にベルリンのKuenast女史のようにうまくは指摘できない。緑の党は赤(社民党)とともに、または黒(CDU/CSU)とともに破滅するかもしれない。彼女はあるときはある党に、またあるときは他の党に我慢強さをみせている。(Jasper von Altenbockum)
2011年6月14日
(脱原発)
「いもむし」の間違い
フクシマの後、論説はイデオロギーについてのリスクについては一致している。ただ、つぎの原発大災害がおこることは確かである。ある種の民主主義の変革でもある、エネルギー変革についての意見表明。(Urlich Beck)
アメリカの環境評論家Stewart Brandはドイツの脱原発計画について、「あなた方ドイツ人は一人ぼっちである」「ドイツは無責任である。経済的理由からまた温室効果ガスによる脅威の観点から我々は原子力をあきらめることはできない」
rtイギリスの環境評論家、George Monbiotは鋭い。「私は疑問をもっている。しかし、フクシマは原子エネルギーの価値を私に納得させた」「日本の原子炉はひどい地震と津波という可能な限り最も厳しいテストに曝されているとはいえ、これまで一人の死者もでていない、と言う理由でMonbiotは原子エネルギーが好きである。
ドイツがエネルギー変革にたいする政治的な決定をすることで、ヨーロッパのモダン概念から決別し、ドイツの精神的な、暗い、森のルーツに立ち返った、ととることは完全に間違いである。ここでは言葉の上でのドイツの非合理性が力を持ったのではなくて、自己責任による危険を伴う方向転換において、モダンの学習性、創造性にたいする信頼が、力を握ったのである。
原子力支持者は経験に反するリスク免疫概念―それは、初期の産業化時代を無思慮にも原子力時代と取り違えている。このリスク合理主義は、もっとも厳しいケースが起こりうること、そしてそれに対する予防がなされなければならないと言うことから逸脱している。計算可能なリスクの前提が、もし原子力の場合にも有効であるなら結構なはなしである。
希望的観測、現実に対する盲目
大規模事故の場合でもウランの放射能は数時間程度であり、数千年も続かないとか、ミュンヘンのような発電所の近くの大都会でも避難する必要はないとかいわれているが、いずれも希望的観測であり、現実に目を瞑っている。チェルノブイリやフクシマの後でも、フランスや、イギリス、アメリカ、中国その他の原発は安全であり、それは経験上正反対の推論を引き出すに違いない。一つだけは確かなことがある。それは原子力大災害がまた起きること。不確かなのは「何時」「どこで」である。
エネルギー生産の大規模な技術設備においてゼロリスクはありえない、そして石炭、バイオマス、水力、風力、太陽などの利用におけるリスクは核エネルギーのそれとはと異なるが、比較は可能であり、原子炉が溶融するとき、なにが起こるか、正確にわかっている事実をごまかすものはだれなのか。
核エネルギーは高く、再生可能エネルギーは安い
これらの数値は時代により、場所により、また再生可能エネルギーに対する社会的な枠を離れた要求によっていつも正しいとは限らない。Monbiotのようにこれに反対するものは死者の数のみを数えることから出発し、まだ生まれていない世代の遺伝的な損害、二度と帰ってこれない避難民、イデオロギーとしてリスク科学を実践した人を数えない。
そして、安全性の問題、おかしなことにアメリカのような自由な市場経済の大国にあっては核エネルギーは第一の国家社会的産業であり、どの場合でも国が失敗のコストに関わっている。
利益は個人のポケットにはいるが、リスクは社会化され未来の世代や納税者に転嫁される。
19世紀のリスク概念は、原子力については21世紀のはじめにも適用される。
ドイツのような迅速な脱原発コースは他の産業化国家ではどこでも行われない。それは度をこしたパニックではないのか?ちがう、それはドイツの心配ではない。それはエコノミーであり、奇妙なことだ。核エネルギーは長期的には高くつく。再生可能エネルギーは安い。まず、価値がある。すべてのオプションを開いておくものは投資はしない。そのときドイツはエネルギー変革を創造しない。
ずるがしこい心配はドイツ人をかりたてはしない。かれらは世界の未来の市場の経済的な機会を察知している。核エネルギーの賛成者は未来の市場への道を自ら作り投資するが、それはオルタナティヴな教育と研究所にではない。
今日我々はかつての石炭と鋼鉄による第一次の産業革命と似た観点ですすめようとしている。太陽エネルギーにとって不毛の地は一部でのみ開発されているが、すべての文明のエネルギー需要をまかなうことができる。だれも太陽光を所有できない。誰もそれを個人の所有、国家の所有にはできない。すべての人がエネルギーソースを開発できる。核エネルギーは階級的であるが、太陽エネルギーは民主的である。核エネルギーの本質は反民主主義である。
国家と社会の間の新しい連携
原発災害の観点は国家と文化社会的な運動を力づける。それらは新しく認定されたエネルギー源とその扱い方の選択を可能にさせる。同時にそれは原子力産業を無力にさせる。それに従って、市民社会的な運動と国家の間の新しい連携が作られる。それはドイツでいまみることができるようなものであり歴史的な機会である。
ドイツの脱原発を批判するものは「芋虫の間違い」に圧倒される。この動物は羽化の時期にきている。しかし、再生可能エネルギーという蝶にやがてなるのだが、その予感はまだなく、ココヤシに隠れている。
2011年6月14日
(脱原発の外部への影響)
Eon社とRWE社の相場は底からぬけた
株式市場のかつての主役であったEonとRWEの株がゆっくり立ち直るかどうか、アナリストは疑問視している。脱原発の要求はこれまでほとんど計算不可能である。
2011年6月14日
(連邦における黒(CDU)と緑の党)
メルケル首相の変革は勇敢だった
CDUが脱原発を決めたことのためだけで、メルケルは緑の党の好ましいパートナーにはならないだろう、とラインラントファルツ州の経済相Eveline Lemkeは語った
2011年6月16日
(エネルギー変革)
家主はコストを恐れている
エネルギー変革はたくさんお金がかかるーそれは家主にとっても?ドイツ家主連合の会長、Franz-Georg Ripsは反対を要求している。政府は住宅改造*の助成を年間1.5から50億ユーロにあげるべきだと。
*ドイツでは冬場の暖房エネルギーの節約のために住宅の断熱性を上げる必要がいわれている(訳注)
フランクフルター・アールゲマイネ より
Aktuelle Nachrichten online – FAZ.NET
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フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(独: Frankfurter Allgemeine Zeitung – F.A.Z.)は、第二次世界大戦後の1949年にフランクフルト・アム・マインに再建されたドイツの新聞。略号は FAZ である。福島原発事故に関連する記事の表題と抄訳を安藤直彦会員が随時行う。 体裁を整え伊津が掲載する。