藤田祐幸さんを悼む 田中 良

藤田祐幸さんを悼む 田中 良

 1983年のエントロピー学会創立発起人のひとりであるとともに、長年月にわたってエントロピー学会事務局長として学会運営の中心となってご尽力されてきた藤田祐幸さんが、本年(2016年)7月18日21時45分に永眠されました。ガンとの闘病の末でした。
 藤田さんのエントロピー学会への思い入れは深く、常に言われていたことは、その運営理念でした。すなわち、会則を設けない、会費を定めない、役員選挙を行わない、の3点です。普通の学会運営の基本となるこれらの事項を否定するということに、藤田さんの既存アカデミズムに対する批判精神を感じたものです。
 しかし一方で藤田さんは、学問というもの、そして科学の可能性というものに大きな期待をもたれていたのだ、と私は思っております。「エントロピー」の概念は1983年当時、社会から注目され始めていましたが、「科学技術や諸現象を安易に説明する道具としても用いられるようになってきている」(エントロピー学会設立趣意書)という危惧が、藤田さんをはじめとして設立発起人皆さん共通の思いでもあったはずです。権威主義的な既存アカデミズムには断固背を向けるものの、「市民の科学」を目指すうえでも、議論の科学的根拠や厳密性を重視するのもまた藤田さんでした。藤田さんは何よりも科学者であった、ということが先ず私の思い出の中の「藤田像」です。
 エントロピー学会の活動を語るにあたって、藤田さんは「地域」というものを非常に重視されました。藤田研究室(そしてエントロピー学会事務局)は横浜市港北区日吉の慶応義塾大学にありました。藤田さんは学会発足とほぼ同時に「横浜セミナー」を立ち上げました。会場の変転はありましたが、毎月第三土曜日の午後に公開セミナーが開かれました。テーマは「水」「土」「ごみ」といった身近な問題が中心です。調査、見学を兼ねた旅行もよく行いました。そのなかで1993年2月の山形県長井市への旅は楽しい思い出です。長井市では、「レインボープラン」という生ごみの堆肥化を始めとする、ごみのリサイクルと農産物の地産地消を有機的に結合させた地域循環プログラムが、市民と行政の共同作業で動きだそうとしていました。その現場を見学させていただくため、藤田さんと私たち横浜セミナーが長井市にお邪魔しました。市役所の会議室で「レインボープラン」の説明を受けた後、先方から依頼されての藤田さんによる「江戸の地域循環」の講義が始まりました。横浜セミナーでは藤田さんの話は何度も聴いているのですが、このときの藤田さんの話は黒板を前にしての学校での授業のようなかたちで行われました。聞き手は、「レインボープラン」に関わる市役所の担当職員と市民の方々、そして私たちです。藤田さんは、まず黒板に大きく関東平野と江戸湾の地図を書きました。そしてその地図を縦横に使いながら江戸の物質循環構造を説明していきました。もともと藤田さんは、話し方が上手なこと、したがって講演の上手さは天下一品であること、では衆目の一致するところだと思いますが、板書も超一級でした。後でそのことを藤田さんにお話したところ、藤田さんは「大学の研究者といっても、特に教養に身を置く場合は、きちんと教え方を研究しなければいけないし、板書は特に大事だ」と言われたことは、いまでも記憶に残っています。藤田さんは「大学教員」という「本業」を大事にされるプロの職業人でした。このことから、「教師」としての「藤田像」が浮かび上がってきます。
 ところで藤田さんが横浜セミナーを主宰することには別の目論見がありました。それは藤田さんご家族が当時住まわれていた神奈川県三浦市にある、小網代湾周辺の森の開発計画をストップさせる、ということです。ただし藤田さんの考えは、開発自体に絶対反対ということではなく、自然と人間が共生できる保存方法を創造しよう、というものでした。こうして藤田さんが組織した小網代の森保護組織が、宮沢賢治の描いた理想郷「ポラーノの広場」をモデルとした「ポラーノ村を考える会」でした。藤田さんは専門の物理学だけではなく文学や歴史にも造詣が深い方でした。とくに宮沢賢治の研究が本職ではないか、と思えるほどの宮沢賢治ファンでしたが、これは藤田さんのロマンティストとしての側面の現れでしょう。
 このように、横浜セミナーを組織して「水」「土」「ごみ」といったことの議論を本格化させたことの藤田さんの目的のひとつが、「ポラーノ村」という自然と人間が共生できる共同体を小網代の森に創造することにあったわけでした。「理想」を「夢」で終わらせない、「市民の科学」を実現させる現実主義者としての藤田さんがここにありました。1983年から2006年まで藤田さんはエントロピー学会の事務局を切り盛りされたわけですが、そこでは現実主義的で高度な事務能力を有する実務家としての藤田さんの側面が発揮されたといえます。
 藤田さんを「脱原発運動家」と定義することは正しいでしょうし、藤田さん自身も恐らくそれを本望だと思われるかもしれませんが、私にとっての藤田さんは、まず科学者であり、そして教師であり、さらにロマンティストであり、しかも実務家でした。だからこそ、運動家としてもこのうえない活躍をされたのだと思います。もっともっと長生きをされて、私たちの道標であり続けていただきたかったのですが、残念です。
 改めてご冥福をお祈りいたします。